勉強会でカラダについての不思議な話が紹介されました。
私たちはよく「運動は苦手だ」とか「スポーツの才能がない」とか、そんなことを勝手に思ったりします。でも、私たちがどんなに運動が苦手だと思ったとしても、そんなこととは関係なくカラダは運動が得意なのです。
皆さんは生まれてからどのくらいの年月が経ちましたか。十年、二十年、もう少し経っていますか。でもいい大人だってせいぜい数十年、長くたって百年です。ところが、カラダは私たちと同じ年齢ではありません。カラダは両親からDNAを受け継いでいます。そこには両親が経験してきた身体の情報が蓄えられている。そして両親は祖父母から受け継いでいて、さらに祖父母は・・・。そうやって時計の針を巻き戻していくと、カラダは生命の誕生まで繋がっていきます。獲物を追っかけ、逃げて、追っかけ、逃げる。登って降りて、跳んで跳ねて潜っていく。そんなあらゆる体験を経て、ようやくここまでたどり着いた。悠久の時を駆け抜けてきたカラダが、全ての経験を蓄えて今ここにあるわけです。
カラダはすべてを知っています。どうやって動けばいいかわかっている。ではなぜ私たちは上手く動けないのでしょうか。それはなぜかというと、私たちがカラダの邪魔をしてしまうからです。運動が得意なカラダに、私たちは余計な指示を出してしまう。何十億年の経験が蓄えられた運動の専門家に、ぽっと出の青二才な私たちが「ああ動け」「こう動け」とでしゃばってしまう。でもカラダはとても優しいんです。どんなに変な指示でも素直に従ってくれます。その結果、へんてこで、ぎこちなくて、とんちんかんな動きとなってしまうわけです。
では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。『舟は船頭に任せよ』ということわざがあります。何事もその道の専門家に任せると上手くいく、というような意味です。乗客が舟の上でジタバタすると、船頭さんは舟を操るのが難しくなる。それと同じように、私たちがあれこれ指示を出すと、カラダさんもやっぱり身体を操るのが難しくなる。だから私たちは、ただゴロンとしている。身体を動かすことはカラダさんに任せて、ゆったりくつろぐ。すると船頭さんが軽やかに舟を操り川の難所をクリアしてくように、カラダさんもどんな動きでも軽やかにこなしてくれます。
と、そんなお話でした。僕らが上手く動けないのは、僕らがカラダの邪魔をしているから。なるほど。わかりました。もう邪魔しません。カラダさん、あとはよろしく。
友人のサバトラが研究室の僕のころにやってきて、机の上にポンッと砂時計を置いた。そして「メデューサって知ってる?」と言って、こんな話を教えてくれました。
ギリシャ神話にメデューサという女性の怪物が出てくる。その美しい瞳を見た者は、石にされてしまうという。メデューサは神話の中では退治されたけど、今も遠く彼方からこの地球を見つめている。僕らの身体が時間と共に硬くなっていくのは、メデューサが遠くから見つめているからなんだ。生まれた時はお餅みたいにグニャグニャなのに、あの世に旅立つ時は石のように硬くなってしまう。僕らはメデューサの瞳からは逃れられない。逃れられないけど、身体に流れる時間を元に戻してあげることはできる。そうすれば、身体は柔らかく甦っていく。
そう言って彼は砂時計を逆さまにした。なんと。日々刻々と硬くなっていく身体を、逆立ちが柔らかく甦らせてくれるという。そんなわけで、僕は彼の研究に参加することになった。もちろん逆立ちをする方で。
ある時、友人のキジトラがクロブチ先生に質問したことがありました。「先生、スポーツはどうしたらもっと上手くできるようになるのでしょうか?」。すると先生は、「夜は早く寝ることですかね」と言われました。
また別の時、再びキジトラが同じようなことを先生に聞きました。「先生、どうしたらスポーツはもっと上達するのですか?」。すると先生は、「誰かと会ったらにこやかに挨拶することですかね」そう言われました。
それを聞いてしばらく考え込んでいた様子のキジトラは、意を決したようにさらに先生に畳みかけた。「先生、“早く寝ること” はなんとなくわかります。でも“挨拶すること” がどうしてスポーツの上達につながるのか、よくわかりません」。キジトラがそう言うと、先生は少し表情を緩めながら
「詰まるところ、スポーツの上達というのは柔らかくなることなんですよ」そう言われました。
夜の勉強会が終わると、そのままいつもの居酒屋に移動して延長戦となる。ある時そこで、友人のサバシロがクロブチ先生に悩みを打ち明けたことがあった。
テーマは『生きづらさ』について。彼は頭が良く、研究熱心で、優秀なアスリートでもあり、そしてとても優しい。彼のことを悪く言う人はまずいない。そんな彼が思い悩んでいるのだから、世界中の人もきっと何かに悩んでいるのだろう。他人事ながらそんなことを思ったことは覚えている。
先生は焼酎の梅干し割りを片手に、長々と続く彼の話をニコニコと聞いていた。そして時折何か言ってはガハハと笑い、つられて彼も笑顔になった。その夜はそんな光景がしばらく続いたけど、僕もまあまあお酒が回っていて、結局先生が彼にどんなことを言っていたのかほとんど思い出せない。
ただ、ひとつだけ覚えていることがある。それは先生が彼の肩に手を置いて、「堂々としていなさい」と言ったことだった。
「右に行こうが左に行こうが、前に進もうが後ろに戻ろうが、堂々としていればいいんですよ。何があっても何もなくても堂々していること。成功しようが失敗しようが堂々としていなさい。それが世界中の人のためになるのだから。」
先生は語気を強めてそう言うと、またガハハと笑った。
友人のサバトラが面白い話を教えてくれた。
「昔々のそのむかし、ヒトには翼が生えていて、どこまでも自由に飛んで行けた。でもヒトはその能力を自慢し、おごりたかぶり、次第に横柄な態度をとるようになっていった。そしてとうとう怒った神は、ヒトから翼をもぎ取とってしまった。」
ダーウィンもまたお怒りである。
「でも、神は翼を完全に無くしてしまうのは少し惜しい気がしていた。ヒトは時に傍若無人で手に負えない。でもそのエネルギーあふれる行動を神は楽しみにもしていた。そこで神はヒトの身体にわずかながら翼を忍ばせることにした。そう、それが肩甲骨なんだ。」
ダーウィンはもう許してくれない。
「ヒトはみんな翼を持っている。その翼で大空を飛び回ることはできないけど、大地を軽やかに舞い、身体の自由を楽しむには十分すぎる。ただ残念なのは、多くのヒトが翼を背中にしまったままにしている。だから翼を上手に使えるヒトだけが、この地球上で身体の自由を楽しんでいる。」
『肩甲骨は翼のなごり』。そんな熱のこもった演説の後は実際に「翼を広げるレッスン」へ。
「胸を軽く張り、あばら骨を上に引き上げる」
おっ、なるほど。身体が少し浮くような感じ。
ある日の勉強会で『緊張』についての研究が紹介されました。
「緊張は無い方が良い。多くの人がそう考えているかもしれませんが、緊張それ自体は運動のパフォーマンスに悪い影響を与えるものではありません。緊張は決して悪者ではないのです。むしろ集中力を高めて私たちを助けてくれます。ではどうして緊張すると、身体が思うように動かなくなってしまうのか。それは緊張を取り除こうとするからです。私たちはよく、緊張を無くそう、緊張の無い状態にしようと悪戦苦闘してしまいます。でもそうやって緊張を身体から取り除こうとすると、身体は硬くなり自由を失ってしまうのです。だから緊張は無くそうとしないで、そのままにしておくのが良いのです。」
そういう話でした。緊張それ自体が悪さをするわけではない。むしろ助けてくれる。だけど緊張を取り除こうとすると悪い影響が出る。だから緊張は取り除こうとしないで、そのままにそのままに。なるほど。
『緊張とは座敷わらし』とメモる。